SKA から Rock Steady へ

オリジナルジャマイカンミュージック「レゲエ」の軌跡、後半は「スカ」から「ロックステディー」への流れや、その後どのように「レゲエ」と呼ばれる音楽が生まれ、そして変化していったのか検証してみよう。

 

1950年代後半に始めて誕生し、ジャマイカ独立を祝うかのように人々に認知されたレゲエの原点「スカ」、ジャマイカの人達やイギリス、アメリカに出稼ぎに来ているジャマイカ人を中心に大流行したが、その流行は3〜4年で鎮火し、レゲエへと向かうジャマイカン・ミュージックのメインストリームからは違う道を進み始める。1966年頃からジャマイカでは、緩やかなリズムや美しいボーカルのコーラスが特徴の「ロックステディー」が好まれるようになり始めるが、それを演奏しているアーティストの多くはデュークリードのレーベル「トレジャーアイル」やコクソンドットの「スタジオワン」でスカを演奏していたアーティスト達だった。

彼らの演奏がアップテンポなリズムのスカから、緩やかなリズムのロックステディーに変化していった主な理由は、当時アメリカで流行していたソウルレーベル「モータウン」のフォートップスや、インプレッションズなどのコーラスグループの影響が強いといわれているが、ジャマイカ独立後の楽観的な感情を共有できなかったルードボーイやギャングスターのマネをした法律違反者が頻繁に警察などと衝突し、争いを続けていたという時代背景もある。このようなキングストンのルーディー現象について以前より心を痛めていた、ジャマイカのキング・オズ・ソウルこと、アルトンエリスが「ロックステディー」というタイトルの曲の中で歌ったロックステディーという緩やかなダンスのスタイルがそのまま使用されるようになり、この音楽ジャンルが誕生したのだ。これは、ジャマイカの音楽ビジネスが始めて安定し始めた頃である。

ロックステディーは、ジャマイカ初のポップミュージックであり、歌詞の主な内容は恋愛やルードボーイについてだった。この頃になると、才能のあるアーティストが朝から晩までスタジオでセッションをして日当を貰っていた「スカ時代」とは大きく異なり、ジャマイカの音楽ビジネス全体が発展を遂げている。この時代に、多くの現役で活躍しているミュージシャンや偉大なレゲエの先人達を輩出している。

Reggae (レゲエ) 誕生

ジャマイカで一世を風靡したロックステディーは短命に終わり、音楽ビジネスの繁栄という恩恵を残して、1968年頃にはオリジナルジャマイカンミュージックは「レゲエ」へとさらなる発展を遂げる。現代の一般的なレゲエの定義とはスカ、ロックステディー、アーリーレゲエ、ダブ、ルーツロック、ダンスホールなどのジャマイカン・ミュージックの総称である。レゲエという言葉の語源については、前編でも紹介した Studio One (スタジオ・ワン) の Toots & The Maytals (トゥーツ&ザ メイタルス) の「Do the Reggey」という曲が発祥であると一般的に言われているが、 「王の音楽を意味するスペイン語に由来する」 「レゲーレゲーレゲーとビートを刻んだ事に由来する」などいくつかの諸説がある。

1968年頃、ロックステディーの終わりと共に新しく生まれたレゲエは、それよりも少しアップテンポなビートに、リズムギターやキーボードの跳ねるようなリズムが絡んでくる踊れる曲だった。レゲエはジャマイカだけではなく、イギリスの労働階級層の若者にも愛され、スキンヘッドでブーツを履いたイギリスの若者が好んで聴いた事から、「スキンヘッドレゲエ」 「スキンズ」と呼ばれることがある。当時の白人がレゲエを好んで聞くというのは、少し想像するのが難しい気持ちは理解できるが、レゲエの市場において白人層は巨大な顧客層であり、当時頻繁にジャマイカのアーティストがイギリスやアメリカへ向けてツアーを行っていた事実や、70年代後半には THE CLASH (ザ・クラッシュ) や The Specials (スペシャルズ) を始めとするイギリスのパンクバンドが、多くのレゲエ曲をカウ゛ァーしている事から裏付けられる。有名なパンクバンドの曲のオリジナルが「R&B」や「レゲエ」であることが多いというのは有名な話である。

ジャマイカでは、1968年頃から70年代初頭までのレゲエを「アーリーレゲエ」と一般的に呼ぶ事が多く、ロックステディーとこの後に登場する「ルーツレゲエ」の間に生まれた産物のように捉えられる事がある。しかしアーリーレゲエは決して狭間の音楽ではなく、世界の音楽史の発展に貢献した偉大な音楽であり、60年代前半のスカに比べると、圧倒的に多くの人に聞かれている音楽に変化した事は疑う事のできない事実であると共に、この頃に作られたリズムは、後に多くのジャマイカンミュージックで繰り返し演奏されている。そして、サウンドシステムを中心に展開されてきたオリジナル・ジャマイカン・ミュージックのカルチャーは70年代に入り鎮火し、一般のリスナーがレコードを自分で買って、家のレコードプレーヤーで聞く時代へと突入して行った。

ラスタファリアンとルーツロックレゲエ

「Jah Rastafari (ジャー・ラスタファーライ)」という言葉を聞いた事があるだろうか?これはラスタファリアン達が神を讃える時のキメ台詞であり、『神 (ジャー) の化身である、エチオピア帝国最後の皇帝、「ハイレ ・セラシエ」を讃えよ』という意味である。この言葉は、 Bob Marley (ボブ・マーリー ) が世界に広めた言葉だと言っても過言はないだろう。しかし、これはボブ・マーリーだけの専売特許ではなく、ジャマイカのラスタファリアン達の魂の叫びであった。70年代に入り、ジャマイカで次に起こった音楽革命が、ラスタファリアンによる、「ルーツ」と呼ばれる「ルーツロックレゲエ」だった。ルーツロックレゲエは、スカやロックステディーと少し異なり、ラスタファリアンの思想を掲げる音楽であると同時にスタジオ録音技術の向上により画期的なリズムやアイディアが次々と生まれている。

ラスタファリアン=ラスタマンとは、ジャマイカで生まれた黒人主義ラスタファリズムの実践者であり、ラスタファリズムとはアフリカ回帰主義を掲げる宗教運動で、近代になっても欧米に植民地化されていないエチオピアを黒人の魂の故郷と定義し、黒人に対してアフリカの生活に帰る事を奨励するものである。キリスト教の信仰が強いジャマイカだが、イギリスの長期にわたる植民地支配や自然災害などの影響で絶望的な生活を余儀なくされていた労働者階級と農民の間で、1930年以降に信仰されていた。 ラスタファリズムの起源は1927年に遡り、白人による黒人への差別が深刻な問題となっていたアメリカで、ジャマイカ出身のマーカス・ガーベイという活動家が、「アフリカに注目しろ、次の黒人の王が即位するとき、彼は黒人を解放するだろう」とスピーチした3年後の1930年にエチオピアで ハイレ ・セラシエが皇帝に即位するという奇跡が起き、マーカス・ガーベイのスピーチは「予言」と誇張され、 ハイレ ・セラシエは神の化身と崇められた事という説が最も有力だが、旧約聖書や黙示録を独自の解釈で理解した反白人的な要素も強いと言われる。

政府当局は反白人的な要素を恐れ、ラスタファリアンへの弾圧を繰り返したが、1966年、遂にラスタファリアンにとって念願だった、神の化身である ハイレ ・セラシエがジャマイカを来訪する。この事件を境にジャマイカでラスタファリアンは増加の一途を辿り、徐々にジャマイカミュージックの歌詞の中でもラスタファリアンの思想について歌っている曲が目立ち始める。スカやロックステディーの頃からラスタファリアンについて歌っているアーティストは存在したが、70年代前半では、ほとんどのアーティストがラスタファリアンの生活や思想について歌い始め、ラスタファリズムは社会現象の域にまで達していった。そして、ラスタファリアンについて歌っているルーツロックレゲエを世界に広めたのがレゲエ史上最も偉大な人物と言われている、 ボブ・マーリーである。

Bob Marley / One Love

70年代にラスタファリアンという生活姿勢を世界に普及した ボブ・マーリーのファーストレコーディングは、1961年から1962年で、前編でも紹介したオリジナルルードボーイ、 The Wailing Wailers ( ザ・ウェイリング・ウェイラーズ) として Studio 1(スタジオ・ワン) からリリースされている。デビュー時のメンバーはボブ・マーリー 、ピーター・トッシュ、 バニー・ウェイラーのオリジナルウェイラーズを含む5人で結成され、ファーストシングルの「Simmer Down」はジャマイカのスカ・シーンで爆発的にヒットしたキラーチューンである。そして、60年代前半のスカのリズムを代表する曲として生まれた「One Love」は長年にわたり繰り返しプレイされることでテンポが少し遅くなり、今も名曲として多くの人に愛されている。

その後、ロックステディーの時期にもBeverley ’ s (ビバリーズ) や Strike Lee (ストライク ・リー )、 Impact (インパクト) などのジャマイカの多くのレーベルと積極的にレコーディングを行っており、その頃の素晴らしい音源は、今も再発版としてプレスされレゲエを扱うレコード屋に行けば買うことができる。 そんな ボブ・マーリーのジャマイカでの活躍を以前より注目していたイギリスの大手レーベル「Island (アイランド)」が、1972年にレコード契約を交わし、ボブ・マーリーをイギリスから世界へ再発信したのだ。ボブ・マーリーはロックがポップミュージックの主流になった70年代のイギリスにレゲエ旋風が巻き起こし、全英、全米ヒットチャートにランクイン、世界中のリスナーがレゲエミュージックという音楽の存在に気付いた時代である。 その為レゲエと聞くと、始めに頭の中で浮かんでくるのが ボブ・マーリーだという人が多いのだろう。

 

その当時のボブ・マーリー は、ラスタファリアンとしての宗教観や政治理念に基づき、社会批判の詩を歌っていた。それは、今も色褪せないメッセージであり、愛と平和がある世界への希望でもあった。しかし、以前からジャマイカで闘争が激化していた ジャマイカ労働党と民主社会主義政党との政治闘争に巻き込まれ、1976年、皮肉にも平和を訴えるライブの前日に自宅で過激派により銃撃を受け、ライブを中止する。 その後、 ボブ・マーリーはロンドンのブリクストンへと移住し、音楽活動を続けている。今年が発売30周年としてイベントなどが行われている、名アルバム Exdos (エクシダス) はロンドンでこの頃にレコーディングされたアルバムである。そして、ジャマイカで度々繰り返されていた政治闘争が落ち着き始めた1979年、 ボブ・マーリーはジャマイカに戻り、 ジャマイカ労働党と民主社会主義政党の党首を自身のコンサート「One Love Peace Concert」に招き、ステージ場で和解の握手をさせ、両党首に挟まれながら熱唱するという奇跡をプロデュースした。

 

それから2年後の1981年に ボブ・マーリーはガンにより、36歳の若さでこの世を去った。彼のデビューからの20年は、オリジナルジャマイカンミュージックの軌跡と同じ道を歩んだ人生であり、彼の死から25年以上経った今でも企画版や過去の未発表音源が発表され続け、世界中のレゲエ愛好者達から愛され続けている。

最後に

ボブ ・マーリー がこの世を去った1981年とは、ラスタファリアンの思想が大衆に広がることにより、ラスタファリズムが低迷し始めた時期であった。その原因は、「信じるもの」を持った人たちが作り上げたラスタファリズムが、流行に便乗した商売やメディアの報道により、「信じるもの」を持たない「見かけ」の文化にすりかわっていった為である。信じるものをもたない模倣者を多く出現させ、オリジナルにあった信じるものを埋没させてしまうのは、流行する資本主義社会文化の運命なのかもしれないが、ラスタファリアンの思想はこの先の時代の若者にも影響を与え続けるだけの意義と魅力を残していったのだった。 その後、ジャマイカではレゲエのデジタル化が進み、リズムマシンなどのコンピュータで曲を作る「ダンスホールレゲエ」が、DJ 主導の元に若者の間で流行する。ここで歌われている歌詞は下ネタや銃の話が多く、ラスタファリアンの思想とはかけ離れたものであった。

「ルーツロックレゲエ」はというと、イギリスで新たに Jah Shaka (ジャー・シャカ )や Abbashanti (アバ ・シャンティー ) などの在英ジャマイカ人により、「UKニュールーツ」として、90年代に一世を風靡し、日本でもメディアが取り上げ、レゲエを聞く事がイケてるとされた時代を作った。さらにスカも、イギリスでパンク・ムーブメントが下火になり始めた70年代終盤から80年代にかけて「2 tone SKA (ツートンスカ)」、「Neo SKA (ネオスカ)」などと呼ばれ、The Specials (スペシャルズ)、MADNESS (マッドネス)、などがパンクバンドに変わって、労働者階級で人気を誇った。 オリジナルジャマイカミュージックの名曲は世界中で繰り返し、繰り返し多くのバンドにプレイされ、いつまでも色褪せる事がない。''Tougher Than Tough'' 素晴らしい音楽とは、繰り返しプレイする事に耐えられる曲の強さが必要であると私は考える。 > 前編を読む

Written by Taka↑